銀閣寺東山文化時代

「小笠原流秘伝術書 ひやむぎ・うどん・むしむぎの作法」

小笠原備前守政清は室町幕府10代将軍足利義稙に仕え武士の儀式作法を指導 この期は銀閣寺が完成 東山文化興隆した時代背景のもとでの麺の食事法が詳細に記さえています 小笠原備前守政清秘伝書 

食物服用之巻(群書類従)より難解な箇所が有りますがひもといて見ました。

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小笠原備前守 政清秘伝術書訳文
永世元年(1504年)九月七日
食物服用之巻 點進之図

一、 汁はのちに下女が持ってくる。始めよりは入れてない。

一、 汁のお代わりは冷や麦の如く取り変える 冷や麦の事。むかい(正面)の両脇に皿(盃型)二枚ずつ四枚まん中の 皿にのせ二枚皿ひきかえる也 両わき三枚になる。何れも中は二枚になる。汁のおかわりも脚付き盆(脚付き折敷)にのせて 持つて出す(かえす) 冷や麦を盛った折敷は蒸しむぎよりは少し小さい。

一、むしむぎの献立 召し上がり方は、箸を取り上げ左手でコショウを取り汁に入れる。コショウ紙は折敷盆の右隅に置く、色々と置き方に 口伝が有る 青味の皿を左手に取り、食べ終えたむしむぎの折敷をその跡に、お盆の折敷のふちにかけておくものである。 皿の薬味加える方法には口伝が有る。

一、 冷や麦は右皿を中に置き下女が注いた汁皿より食べ始める。冷や麦を一箸。汁の中に入れ、長いものは切り、それから皿を取り上げて食べる。その後は汁の入った皿を持って 冷や麦を食べる也。

一、 桐の葉などに盛った冷や麦は葉もとより食べる。葉の先より 食べるのはどんなものだろうか。

一、 うどんは三箸続けて食べる 何度も汁のお代わりをして良い ご主人の御馳走である 自分が嫌いといえども人の御馳走を粗末にすることは如何なるものか その座に座るうえには気に入らないことも堪え 上位の人を良く様子を見る也。

解読 膳は四膳

酒を3杯進めてから膳を下げる 。一献、二献は主食を進める度数 お膳は折敷 薄い板を鉋(かんな)を掛け美しく削つた板を四方に折りまわした縁を付けた折ぎ製の角盆、麺類を入れる器、隅切りの折敷角器、麺類以外の器は円い陶器、五ど入りは約直径が15cmの陶器皿

麺の種類・・・ 「むしむぎ」「ひやむぎ」「うどん」

具材 ・・・「雁」「鯛の刺身」「ふなのまる煮」「たい刺身」「さざえ」「したけ」

薬味 ・・・「けし」「山椒」「コショウ」「蜜柑の皮」「大根千切り」「なつめ」

調味料・・・「酢」「塩」…鯛の刺身・鮒のまる煮・さざえの調味料

汁 ・・・皿に入れるのでコロイド状(味噌)に薬味でからめて 食べる。

食法・・・最初は汁に薬味胡椒などを入れ 麺を皿に入れて汁とからめそれから皿を取り上げ食べその後は汁の入った皿を持って食べる。食べ終えた麺の折敷はお盆のふちにかけておく。

この秘伝書の15年前1485年京都相国寺蔭涼院では経帯麺ラーメンをこのようなる汁で食べたと推測できます。 食物服用之巻は点心ですから茶会に供する軽食で当時1日2食江戸元禄期(1688~1704年)まで続いておりました。

東山文化は室町幕府八代将軍足利義満のもと銀閣寺創建・武家・公家・禅僧等の文化が融合し生まれた。 幽玄、わび、さび、に通じる美意識に支えられ今日まで続く日本的な文化を数多く生み出した。  江戸時代以降小笠原流は武家から町人衆の躾、礼法、作法の指導 として普及。元禄5年(1692年)に出版された「女重宝記二の巻」文中 政清秘伝術書が引用されています。

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「素麺をくう事、汁をおきながら、 一箸二箸素麺を椀よりすくい入て  さて汁をとりあげてくふべし。 その後は汁を手にもちて すくい入,食いてもくるしからず。 汁を替へ候はゞ、はじめは いくたびも汁を下におき、 すくい入れ、とりあげるべし。 うどんもくひ様おなじことなり。」

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「小笠原備前守 政清秘伝術書」は麺の食法を記述した 初見になります。

 江戸ソバリエ協会寺方蕎麦研究会で平成30年11月発表

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